[PR]ジャマイカの反体制思想とレゲエ音楽 忍者ブログ
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大学が学祭期間に入ったので例によって地元に帰ってきた。
一昨年は教習所とバイト、去年は旅行。
いよいよ一度も参加せずに大学生活を終えそう。


最近はいよいよ就活シーズンなるものの到来を実感することが多くてつらい。
周りもやれインターンだ、セミナーだと言って学校に来なかったり、教室で業界地図をペラペラめくってたり、twitterのタイムラインにリクナビの広告が現れたり、自分の意思とは関係無しにどんどん前線へと近づいていってる気がする。
てか去年までだったらもう来週から本格的に始まってたんでしょ、こわすぎ。

就活に関してまったく何もやってないというわけでもないんだけど、まだ自分の志望を確定させたわけでもないので、行きたいところに向かって猪突猛進みたいなスイッチは入ってなくて早くも出遅れている感がある。
表面上ではこーむいん一本ということにして試験勉強してるんだけど実際本当に公務員になりたいかと聞かれたら「うーん」となってしまう程度には意思を固められてないし、そんなんだから大学受験のときみたいな明確な目標があるわけもなく、勉強も言うほど身が入ってない。
マジでどうしたらいいんすかね~~


そもそも、自分の場合将来のことを考える動機の主たるものが「経済的に自立したいから」っていうところなのが問題な気がする。
まぁ誰でもそうなんだけど、周りを見ると就活するか親の会社に入るか、とか最悪バイト先に雇ってもらうと考えてる人とか、ちゃんと将来を考えて「本当に自分がやりたい仕事を見つける」というスタンスでいる人が多い一方で、正直僕は就職口が見つかるとして0か1かという感覚を持っていて、何になりたいかとか、何やりたいかという問題よりも、自力で食っていくにはどうしたらいいかということが99パーセントを占めていて、それが時折内定取れればどこでもいいという自暴自棄な考えにも発展したりしてて良くない。

要はミネラルウォーターと水道水とウォッカどれを飲むか悩むっていうレベルの問題じゃなくて、砂漠のど真ん中でとにかく喉を潤すものを探してるという感じ。
でも水がまったくない訳でもなくて、泥水ならいくらでも手に入るのにそれはプライドか何かが嫌だと言ってなんとなく飲める水を探してる。駄々っ子レベルである。


そんなことを言っていても確実に大学卒業の日は近づいてきているし、奨学金とかいう金銭債務はどんどん積み上がっていくし、親族は無条件に僕がいいとこに就職すると期待しているし、そういうプレッシャーが最近本当に重くなってきてつらたん。

何も考えなくてもなんとなく次のステップに上がっていける時代は終わってしまったのだ、あ~

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昔はよくネットサーフィンなんてものをして暇を潰してたけど、最近はめっきりSNSを見るだけになってしまったなあと考えた。

というのも、最近はネットサーフィンをしても面白いページにたどりつくことが少ないのが原因。

少し前までは個人ホームページを持ってる人が多くて、適当なワードで検索してるとその人の趣味を凝縮したような個性的なHPに出会うことが多かったけど、最近はもっぱらNAVERやらwikiやらまとめサイトやらでどこも似通った検索結果しか出てこない。


自分も熱帯魚の飼育日記を毎日書いてるページや古今東西のビー玉の写真をかき集めたページなんかを見つけてはいつもへばりつくように見ていたけど、今はほとんど放置ないしは削除されてる。悲しい。


ああいうことをしてた人たちも、今はTwitterやFacebookに流れたんだろうか。


自分もせっせとhtml辞典なんかを見て文字を流してみたり掲示板を設置したりわけのわかんない理論を展開してみたりしてたけど(ほとんど誰も見てない)、もっと便利なツールが出てきてめっきり更新しなくなって、いつの間にか消してしまった。


流れてしまうのは仕方ないことだけど、そこに行くと閉鎖性が出てくるのが悩ましいところ。
登録してるメンバーしか見られなかったり、公開範囲が友人限定だったりするとなかなか外部の人の目に触れることが難しくなる。
それに、TwitterやFacebookだとどうしても内容に限りが出てくるし、どことな~く他人の目を気にしながらの公開になるから自由度も下がってしまう気がする。
ブログはまだ公開が一般的で内容も自由度も高いから単なる移住で済んだけれど、SNSの登場は本当にそういう文化を消してしまった。


別に昔は良かったって話じゃないが。
はてな系なんかはまだ栄えてるって聞くけどどうなんだろ。
なんか面白いブログとか見つけたら教えてください。

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この前読んだ本の中で

「喫煙者は多額の税金を収めてくれる上に、自らの寿命を削ることで将来の医療費削減に貢献している、政府にとって非常にありがたい存在である」

というようなことが書かれていて妙に納得してしまった。


ふつうタバコを吸うと早い段階からガンに罹りやすくなる、だから喫煙者を減らせば医療費を削減できるというのはよく言われてる話。

けど、ガンに罹りやすくなるということはさっさと死ねるということだし、タバコを吸ってなければ生きるはずだった残りの人生にかかるコストを0にできるってことにもなる。

確かに、ガンにならずに生き延びたとしても年金をもらわなきゃ生活できないし、それどころか死ぬ前に何年も病院に通うハメになったり、介護が必要になったり、ボケて畜生同然の扱いを受けたり、ロクでもない余生を過ごすことになる。

当然そういう「延命」には金がかかるし、人に迷惑もかかる。
そりゃ政府の本音としては働けなくなったらすぐに死んでもらうほうが都合がいいし、自分としてもそんな状態で苦しみながら生き続けるくらいなら、潔く逝ってしまったほうがよっぽど楽だよなあと思う。


世間だと、長寿は良いこと、健康を目指そうなどと言って、野菜を350g食べろだの、運動をしろだの、嗜好品は控えろだのあれこれ生活を縛って、なんとしても寿命を伸ばそうと躍起になってる。

けど、それで長生きできたとして結局80歳くらいになって病院通い、介護通い、挙句の果てには寝たきりになって、おかゆだかリンゴのすりおろしだか美味しくもないものを食べさせられて、最後は少なからず「ハァこれで介護から解放される」という安堵感を周囲に与えながら死ぬことになる。

それどころか、植物状態に陥って自分でも生きてるのか死んでるのかわからない体になって、呼吸も排泄も機械に頼りながら心臓が完全に止まるのを待つなんてこともある。
もはや生き地獄でしかない。

長生きしたとしても最後に苦しむのは一緒。
死ぬ直前まで超元気で、ある日突然眠るように死ぬなんてことはそうそう無いはずである。


だったら、好きなように生きて好きなだけタバコでも酒でも嗜んで、オッサンになった頃に病気になって、それでも脳だけは最後まで残って、きちんと遺書を書いて死ぬ。
こっちのほうが、よっぽど幸せなんじゃないかと思う。



ここでよく言われる。
家族がいたら悲しませることになるし、自分が死んだあとの生活はどうなる?
確かに、残された家族に酷な結果になる。

けれど、長生きしてから死んだとしても少なからず家族は悲しむし、上で書いたように介護やら医療やらで結局は大きな負担を強いることにもなる。
それじゃ、長生きしたって家族を幸せにできるとは思えない。

自分勝手に見えるけど、本当に家族のことを考えたら、
こういう見方もあっていいんじゃないか。




と、最近本気でこんなことを考えている。
「どうせいつか死ぬ」の意味の1つはこれ。 ラジカルすぎる気もするけど。


これから先、結婚したり子供が出来たりしたら、考えが変わるんかもねえ

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たまには吹奏楽ネタ。


僕はそんなに吹奏楽に精通しているわけではないのだけど
(3~4年くらいしか吹いてないし)
この曲は吹奏楽を始めた頃iTunes内に作った「個人的好きな曲リスト」の中でも
3年前のメンバー入り以来不動のエースを守り続ける名曲中の名曲である。


吹奏楽がまだ一ジャンルとして確立していなかった1903年頃につくられた曲で、
作曲者は「惑星」で有名なホルスト。
「惑星」が書かれたのが1915年前後なので、この曲が書かれた当時はまったく無名の作曲家だったと思われる。


端的に言うと純粋。ただただオーソドックス。
しかし単純というわけではなくて、「全く無駄の無いハーモニーと各楽器の音色を最大限に活かしたメロディ、そして伝統的で簡潔な手法は吹奏楽のバイブルとも言える」(大阪市音楽団)と評されたりもする。そういう意味で現代の吹奏楽の基礎を築いた作品である。


まったくクセが無くていつ聴いても感動できて、いつまでも飽きずに聴いてられる。
そして聴けば聴くほど新しい発見があって、その度に作り込みの精密さに驚かされる、どこまでも奥が深い曲だと思う。

この曲を知らない人に「どんな曲?」と聞かれたら「天然水みたいな曲(ドヤアア」って言ってやろうと思っているのに聞かれた試しが無いので今度聞いてください。


余談だけどホルスト自身は「惑星」を自信作と思っていなかったらしく、「惑星」が有名になる一方で自分の他の作品が評価されないことに不満を抱いていたらしい。
この第一組曲もそんな作品の一つだったのかもしれない。

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家に帰ると、教授の寝床であったダンボールやら汚れた布団やら食べかけの缶詰やらが残っていて、虚無感と喪失感にひどく苛まれた。

しかも、次の週はゼミの発表である。
現実が戻ってくると同時に、あの猫は幻だったんじゃないか、なんて思ったりもした。





短い間ながら猫を飼ってみて、あのときのことを振り返る。

猫を拾ったその日から、自分の行動やエネルギーの矛先がすべて「猫の為」になっていた。
教授のためならどんなにめんどくさいことでもやれる気があったし、自分のことを犠牲にしてでも教授の世話をしていたように思う。

実際、教授を拾ってから引き渡すまでの3日間は1日1~2時間程度しか眠らなかったし(それも眠かったのではなくそろそろ寝ないとまずいかな、という義務的な睡眠だった)、飯も二日目にカップラーメンを1個食べただけだった。
今考えると頭がおかしいのだが、このときは眠いとも腹が減ったとも思わなかったし、それよりも教授が腹を空かしていないかのほうが重大な問題だった。

音楽も聴かなかったし、当然勉強もしなかった。


よく、赤ちゃんを持つお母さんが体を壊してまでも子供の世話をしてしまうなんて聞くけれど、本当にその気持ちがわかったような気がする。
将来子供を持つかどうか怪しいが、10年先回りして子育てを経験してしまったみたいである。
無論、猫の子供だからまだよかったものの人間の子供を育てるとなったらこれの比ではないんだろうな、とは思うけれど。





教授が捨て猫だったのか野良猫だったのかははっきりとわからないけれど、あんなにも毛が綺麗で病気にもかかっておらず、初対面の人間に対してやけに人懐っこいところを見るとやっぱり捨て猫なんじゃないかという憶測は捨てきれない。

教授を捨てたアホ飼い主がいるとしたらいますぐ会ってぶん殴りたい気分でいっぱいなのだけれど、本当に、動物を飼うならそれ相応の責任を負って、繁殖させる気が無いならそれなりの対策を取れと、至極当たり前の言葉しか出てこない。

教授はある意味で幸運だった。
いい里親さんに引き取ってもらうことができた。

しかし大抵の猫は里親を見つけようと思っても見つけられず、最悪の場合は保健所行きである。
そもそも捨てられる猫のうち誰かに拾われる猫すらも少数派で、拾われずに野生化した猫はその半数が死ぬ運命にあるし、死ななかったとしてもほぼ100%の猫が感染症や虫害に苦しむのである。



捨てる側はポンと捨てるだけだから楽である。あとは忘れてのほほんとするだけだ。
しかし捨てられる側はたまったもんじゃない。
捨てることによって発生する自分以外への不利益、特に捨てられた動物が受けるであろう悲惨な運命をもっと考えとけ馬鹿野郎という話である。
そしてそれが考えられないというのなら動物なんか飼うなという話である。



以上が教授を保護した3日間で思ったことである。
なんでこんなに長々と日記を書いたのかというと、もはや自分の記憶の中で幻と化している3日間の思い出を文章の形で残しておいて、当時思ったことや考えたことを風化させないようにしとこうと思ったからである。


かといってFBやTwitterで見せびらかすほどのものでもないので、特に誰も見てなさそう、あるいは物好きな人が1人2人見てるくらいなこの場所に置いとこうと考えた次第である。



誰だかわからないけどちょこちょこ観に来てくださってる方、ありがとうございます。
今後もルネサンスをよろしくね。ばいびー。

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